カルマは結果論、言い換えると観念
先日、カルマの話をした。人生にはカルマみたいに思える流れもあるのだが、一般に言われているカルマの法則は大衆を騙す偽りだという話だ。当ブログではカルマの話なんて優先度合いは低いのだが、記事に「その通りですね。具体例としては……」みたいなコメントが幾つも入り、しかも、当ブログに反発してくる人に関する垂れ込み(笑)もあったので、また話をする事になった。

当ブログの記事を読むと、通常は「やっぱりカルマは思い込みなのかなぁ」となる。しかし、カルマが無いと損をすると感じる人がいるのか「それでもある、観念とか語るアホタレどもに俺様が喝」と語る人の情報が、当ブログに垂れ込まれた。
その人は、「俺はいい思いをした後、酷い目に遭ったんだ。だからカルマはあるんだ」とか、合理的とは言いがたい論理を進める。いい思いをした人がいるとして、その後に酷い目に遭う人なんて有り触れている。酷い目に遭わない人も有り触れている。よって、そんな状況はカルマの証明にはならないのだ。また、その人が霊的体験をしたり、邪霊などと戦う事も、カルマの存在とは無関係だ。
例えば、楽に5000万円手に入ったとしよう。そして、投資で失敗して3000万円損したとしよう。こんな状況を味わって「カルマはある! 俺は霊的体験をしてしまった、はっはっはっ」とか言われても説得力が無い。そもそも、「損した」とかいう考え方自体が、極めて主観的な話で、人から見れば「結局2000万円はあるんでしょ?」という話にもなってしまうのだ。不幸なんだという観点だと、「何でもいいから不幸を味わえば、その分、幸せが来る」といった破綻した思想にも繋がる。ポア(殺)されれば、来世でハッピーみたいな危ない思想もあるのだ。家を失う人がいるとして、最初から家の無い人は不幸なの? 別に古アパート暮らしでも、本人に特に想いが無いならば万端のはずだ。カルマでも何でもない。
大金が手に入って、お金は失わずに平均寿命で亡くなったとしよう。この場合には、カルマ信望者は「カルマは来世に持ち越される」のように語ればいいわけだ。とにかく、結果を見てから、言い訳じみた事を語ればカルマの説明になってしまうのだ。
結果が良くなかった場合には、「カルマの総決算は誰も免れる事はできない証明」「簡単には他人には祓えない」と語り、結果が出ずに亡くなった場合には、「来世だ」「あの世だ」「最終的には」と語れば「カルマがある」という結論に誘導される事になる。そういうのはインチキというのだ。そもそもカルマがあるという前提だと、言い訳じみた観念(思い込み)を加えねばならないのだ。何とでも理屈は捏ねられるというか、当ブログの筆者や読者が見れば理屈にもなっていないのだが。なお、「カルマの法則は完璧な教育システム」みたいに語られる場合もあるが、それは法則の存在を証明するのではなく、生き方の教訓になるという話に過ぎない。
また、現在の魂がそのまま生まれ変わる事は無いというのが転生に関する真実だと考えている。魂というの集合体になっていて、その一部が人間として生まれてくるわけで、生まれ変わる時には一旦、集合体に取り込まれてから新たな魂として転生する。カルマがあるにしても、その集合体全体で解決する事になるのだ。
1つ笑ってしまったのは、「カルマは絶対にある」というブロガーは、つい先日の自分の記事で「悪口を言う人がおったら拝むのや(カルマを取ってくれたのだから)」と、まことしやかに記している。なのに、筆者がカルマは祓えるという話で「悪口を言われたら、その人に感謝しろ。自分のカルマを受け取ってくれた、ありがたい人だ。」と語ったら、先方は「悪口くらいで祓えるような罪ではなく、もっと大きな御用の悪」と語り出す。自己矛盾とはこの事で、何事も客観的ではなく、自分の都合いいように解釈しているだけなのだ。「自分は壮絶なカルマを食らったんだ」という話も主観的で、他の人の解釈が入っていない。
ちなみに、例えば首相や都知事ならば、あちこちのブログや匿名掲示板で叩かれている。それだけ大勢の人に汚い言葉で罵られれば、1人が祓うカルマは少なくても、人数でカバーできる。また、マスコミでも政治家を叩く事がある。なお、首相・都知事クラスは、富裕層や既得権利者などを大いに喜ばせているので、カルマはぐんと減っている(笑)
苦しめばカルマは消化されるんだという戯言も存在する。苦しむために生まれてきたみたいな思想は、カルマを重視する仏教的な考え方だ。宗教はそのように大衆を支配してきたのだ。例えば、年収2000万円の美人にもてた高収入者が、年収500万円でもてにくくなり苦しんでいるとしよう。えーっ? それっとカルマの克服に繋がるの? 苦しめば負のカルマが無くなるという発想は破綻している。また、見方によっては、金目当ての異性が周りに減って幸せともいえる。
カルマを祓う話で、当ブログは幻の桜というブログの話を持ち出した。幻の桜の作者は巫女さんで、エネルギーの本質を見極める事ができるのだが、自分自身がほとんど見えていない状態だった。なんと、貧窮を理由に幻の桜が休止となった。当ブログでカルマの話をしたこんなタイミングで幻の桜が休止とは、カルマ信望者に塩が送られた形(助け船)になってしまったようだ。ただ、それでカルマ信望者が調子こいてくれないと、当ブログの記事がまたアニメの話になる事は明白なので、結局は当記事が誕生したわけだ。
カルマ信望者が調子こいたのはいいのだが、冷静に分析すると、幻の桜はお金に繋がらなかっただけだ。なのに、カルマ信望者は「自分のカルマを祓い切れない巫女がいた。よって、カルマは存在する」のように勝手に解釈してしまっている。このような勝手な解釈を観念と呼ぶのだ。ちなみに、医者の不養生とあるよう、お祓いをする巫女さんが邪気まみれ……なんて事はあるわけだ。
幻の桜の巫女は貧窮しているという状況だが、別に破綻したわけではない。また、助言できる男が近くにいないというのも大問題だ。恐らく、そこらの男がアドバイスしても無視し、自分を貫く性格に思える。助言できる霊を持った男がいなかったので貧窮状態になったわけだ。
さて、心理的な法則として、人は自分の得になる事を正しいと感じ、損になる事を間違っていると感じる。例えば、自分がいい想いをして、後に酷い目に遭ったとしたら、カルマはあると思う事で自分を癒やす事ができるので得だ。自分は不運を回避できない程度の能力だと知ったり、不運を食らう人生だと思い知る事になれば生きてゆけない。よって、神の法則が設定したと思い込む事で自分を慰める事ができるので得なのだ。一方、「カルマは無い」なんて思い込むと、慰めや癒やしが得られないので損となるわけだ。いずれも、自分視点(主観的)であって、他人から見れば極めて説得力が弱い。自分が見えていない状態で、論理学に基づいた知恵にも欠ける。筆者は「実体験じゃないと聞く耳持てない」と記したが、「自分の体験に観念を加えて主観的に語れ」と記した覚えは無い。主観的な解釈を体験と勘違いする状況も、何事をも独りよがりに解釈する結果と言える。
去年の時点で「嘘を信じさせるトリック」のような記事を書いており、人は聞き心地のいい事を正しいとする傾向があると述べた。ベンジャミン・Fとかによってお金を配布されるのは都合いいので、正しいと信じ込むというわけだ。要するに、当ブログではとっくに語り尽くしているわけだ。
「人は自分の得になる事を正しいと感じ、損になる事を間違っていると感じる。」という話は、当ブログへの天恵(追い風)と言えよう。誤った使い方をした人も、自分を思い知る事に役に立った事だろう。
なお、当ブログ筆者は「アセンションなんて無い」という話をした覚えはない。「2012年の完全アセンションを語っていた情報源は、今後信用してはならない」(マシュー、サナンダ、サルーサ)という話はしているし、「支配層のプランが、今後20年は設定されている。もし、近い内にアセンションするとしたら、支配層の態度が矛盾する」とも語る。今の所、70年後くらいまでにアセンションみたいなイベントはあるかも知れない。また、アセンションのイベントがある事と、カルマが適用されない立場がある事とは独立している。カルマ+アセンションの抱き合わせこそが罠と言えよう。「俺にはカルマがあるから、自分は助かるために消化しよう」という思想自体がカルマだ。自分こそはという思想に加え、選民思想というカルマもあろう。
ちなみに、2012年末までに「納得できるだけカルマを消化できた」と思った人は、信者のどれくらいの割合がいるのだろう? 恐らく99%の人が、「まだ消化できていない」と感じていたはず。よもや、不運が訪れた事をカルマの消化と考えているのではあるまいな? 2012年末に何事も起きないという不運を味わったので、もう信者のカルマはゼロだよね? いいや、単にエナジー・ヴァンパイアにはめられただけなのだ。
垂れ込みのあったカルマ信望者は、他にも当ブログが語っていない話を前提に、ハチャメチャな論理を続ける。例えば、「魔導師ならば、何をやってもカルマの負債を負わずに済む」なんて話を、当ブログでした覚えはない。カルマを信じたい余り、カルマを否定する情報とは関係無い話で叩こうとしているわけだ。このような詭弁は「藁人形論法」と呼ぶ。論争相手の意見を都合よくねじ曲げて紹介し、それに反論する事で、相手を言い負かせたように見せかける方法の事だ。今回の場合には、反論すら詭弁で破綻しているので、藁人形論法すら不成立という事になる。
スピリチュアルに浸かっている期間が長い事は誇りにはならない。理由としては、そもそもスピリチュアルというのは、カバラの魔導師が「教育やマスコミなど基本項目に騙されない大衆」から吸うために設定したエナジー・ヴァンパイア・システムだからだ。
少なくとも、「カルマは観念だ(回避できる)と語るアホが現れた、叩いてやろう」という発想で、当ブログや田舎で深呼吸とか幻の桜までおとしめようとする人間がカルマの消化をしているはずもなく、ますます増やしているだけだ。以前に語ったよう、「魂磨きをしている程に人生は長くない」という話にも繋がる。もちろん、2012年末には失望を味わい、カルマを増大させている。
カルマ信望者(他ブログに噛み付く)は今度は武田邦彦なんて人を立ててきたが、「武田邦彦 インチキ」で検索してから出して貰いたい。また、参考になる言葉があっても、使う所を間違えないで貰いたい。
以前にコブラ解放を信じ、当ブログ(のバックにいるスピリット)に叱られた人が、また当ブログのスピリットに叱られる事になったわけだ。
むしゃくしゃした時は、タバコでも吸って忘れよう。タバコは薬だ。ただし、本物は葉巻(シガー・シガリロ)とパイプのみ。
葉巻やパイプは楽天の次の店をお薦め。値段も良心的……のように紹介したが、実はタバコというのは、輸入品も含めて全国均一の料金だった。つまり、次の店は楽天ポイントが入ったり、使える分、得するわけだ。
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当ブログの記事を読むと、通常は「やっぱりカルマは思い込みなのかなぁ」となる。しかし、カルマが無いと損をすると感じる人がいるのか「それでもある、観念とか語るアホタレどもに俺様が喝」と語る人の情報が、当ブログに垂れ込まれた。
その人は、「俺はいい思いをした後、酷い目に遭ったんだ。だからカルマはあるんだ」とか、合理的とは言いがたい論理を進める。いい思いをした人がいるとして、その後に酷い目に遭う人なんて有り触れている。酷い目に遭わない人も有り触れている。よって、そんな状況はカルマの証明にはならないのだ。また、その人が霊的体験をしたり、邪霊などと戦う事も、カルマの存在とは無関係だ。
例えば、楽に5000万円手に入ったとしよう。そして、投資で失敗して3000万円損したとしよう。こんな状況を味わって「カルマはある! 俺は霊的体験をしてしまった、はっはっはっ」とか言われても説得力が無い。そもそも、「損した」とかいう考え方自体が、極めて主観的な話で、人から見れば「結局2000万円はあるんでしょ?」という話にもなってしまうのだ。不幸なんだという観点だと、「何でもいいから不幸を味わえば、その分、幸せが来る」といった破綻した思想にも繋がる。ポア(殺)されれば、来世でハッピーみたいな危ない思想もあるのだ。家を失う人がいるとして、最初から家の無い人は不幸なの? 別に古アパート暮らしでも、本人に特に想いが無いならば万端のはずだ。カルマでも何でもない。
大金が手に入って、お金は失わずに平均寿命で亡くなったとしよう。この場合には、カルマ信望者は「カルマは来世に持ち越される」のように語ればいいわけだ。とにかく、結果を見てから、言い訳じみた事を語ればカルマの説明になってしまうのだ。
結果が良くなかった場合には、「カルマの総決算は誰も免れる事はできない証明」「簡単には他人には祓えない」と語り、結果が出ずに亡くなった場合には、「来世だ」「あの世だ」「最終的には」と語れば「カルマがある」という結論に誘導される事になる。そういうのはインチキというのだ。そもそもカルマがあるという前提だと、言い訳じみた観念(思い込み)を加えねばならないのだ。何とでも理屈は捏ねられるというか、当ブログの筆者や読者が見れば理屈にもなっていないのだが。なお、「カルマの法則は完璧な教育システム」みたいに語られる場合もあるが、それは法則の存在を証明するのではなく、生き方の教訓になるという話に過ぎない。
また、現在の魂がそのまま生まれ変わる事は無いというのが転生に関する真実だと考えている。魂というの集合体になっていて、その一部が人間として生まれてくるわけで、生まれ変わる時には一旦、集合体に取り込まれてから新たな魂として転生する。カルマがあるにしても、その集合体全体で解決する事になるのだ。
1つ笑ってしまったのは、「カルマは絶対にある」というブロガーは、つい先日の自分の記事で「悪口を言う人がおったら拝むのや(カルマを取ってくれたのだから)」と、まことしやかに記している。なのに、筆者がカルマは祓えるという話で「悪口を言われたら、その人に感謝しろ。自分のカルマを受け取ってくれた、ありがたい人だ。」と語ったら、先方は「悪口くらいで祓えるような罪ではなく、もっと大きな御用の悪」と語り出す。自己矛盾とはこの事で、何事も客観的ではなく、自分の都合いいように解釈しているだけなのだ。「自分は壮絶なカルマを食らったんだ」という話も主観的で、他の人の解釈が入っていない。
ちなみに、例えば首相や都知事ならば、あちこちのブログや匿名掲示板で叩かれている。それだけ大勢の人に汚い言葉で罵られれば、1人が祓うカルマは少なくても、人数でカバーできる。また、マスコミでも政治家を叩く事がある。なお、首相・都知事クラスは、富裕層や既得権利者などを大いに喜ばせているので、カルマはぐんと減っている(笑)
苦しめばカルマは消化されるんだという戯言も存在する。苦しむために生まれてきたみたいな思想は、カルマを重視する仏教的な考え方だ。宗教はそのように大衆を支配してきたのだ。例えば、年収2000万円の美人にもてた高収入者が、年収500万円でもてにくくなり苦しんでいるとしよう。えーっ? それっとカルマの克服に繋がるの? 苦しめば負のカルマが無くなるという発想は破綻している。また、見方によっては、金目当ての異性が周りに減って幸せともいえる。
カルマを祓う話で、当ブログは幻の桜というブログの話を持ち出した。幻の桜の作者は巫女さんで、エネルギーの本質を見極める事ができるのだが、自分自身がほとんど見えていない状態だった。なんと、貧窮を理由に幻の桜が休止となった。当ブログでカルマの話をしたこんなタイミングで幻の桜が休止とは、カルマ信望者に塩が送られた形(助け船)になってしまったようだ。ただ、それでカルマ信望者が調子こいてくれないと、当ブログの記事がまたアニメの話になる事は明白なので、結局は当記事が誕生したわけだ。
カルマ信望者が調子こいたのはいいのだが、冷静に分析すると、幻の桜はお金に繋がらなかっただけだ。なのに、カルマ信望者は「自分のカルマを祓い切れない巫女がいた。よって、カルマは存在する」のように勝手に解釈してしまっている。このような勝手な解釈を観念と呼ぶのだ。ちなみに、医者の不養生とあるよう、お祓いをする巫女さんが邪気まみれ……なんて事はあるわけだ。
幻の桜の巫女は貧窮しているという状況だが、別に破綻したわけではない。また、助言できる男が近くにいないというのも大問題だ。恐らく、そこらの男がアドバイスしても無視し、自分を貫く性格に思える。助言できる霊を持った男がいなかったので貧窮状態になったわけだ。
さて、心理的な法則として、人は自分の得になる事を正しいと感じ、損になる事を間違っていると感じる。例えば、自分がいい想いをして、後に酷い目に遭ったとしたら、カルマはあると思う事で自分を癒やす事ができるので得だ。自分は不運を回避できない程度の能力だと知ったり、不運を食らう人生だと思い知る事になれば生きてゆけない。よって、神の法則が設定したと思い込む事で自分を慰める事ができるので得なのだ。一方、「カルマは無い」なんて思い込むと、慰めや癒やしが得られないので損となるわけだ。いずれも、自分視点(主観的)であって、他人から見れば極めて説得力が弱い。自分が見えていない状態で、論理学に基づいた知恵にも欠ける。筆者は「実体験じゃないと聞く耳持てない」と記したが、「自分の体験に観念を加えて主観的に語れ」と記した覚えは無い。主観的な解釈を体験と勘違いする状況も、何事をも独りよがりに解釈する結果と言える。
去年の時点で「嘘を信じさせるトリック」のような記事を書いており、人は聞き心地のいい事を正しいとする傾向があると述べた。ベンジャミン・Fとかによってお金を配布されるのは都合いいので、正しいと信じ込むというわけだ。要するに、当ブログではとっくに語り尽くしているわけだ。
「人は自分の得になる事を正しいと感じ、損になる事を間違っていると感じる。」という話は、当ブログへの天恵(追い風)と言えよう。誤った使い方をした人も、自分を思い知る事に役に立った事だろう。
なお、当ブログ筆者は「アセンションなんて無い」という話をした覚えはない。「2012年の完全アセンションを語っていた情報源は、今後信用してはならない」(マシュー、サナンダ、サルーサ)という話はしているし、「支配層のプランが、今後20年は設定されている。もし、近い内にアセンションするとしたら、支配層の態度が矛盾する」とも語る。今の所、70年後くらいまでにアセンションみたいなイベントはあるかも知れない。また、アセンションのイベントがある事と、カルマが適用されない立場がある事とは独立している。カルマ+アセンションの抱き合わせこそが罠と言えよう。「俺にはカルマがあるから、自分は助かるために消化しよう」という思想自体がカルマだ。自分こそはという思想に加え、選民思想というカルマもあろう。
ちなみに、2012年末までに「納得できるだけカルマを消化できた」と思った人は、信者のどれくらいの割合がいるのだろう? 恐らく99%の人が、「まだ消化できていない」と感じていたはず。よもや、不運が訪れた事をカルマの消化と考えているのではあるまいな? 2012年末に何事も起きないという不運を味わったので、もう信者のカルマはゼロだよね? いいや、単にエナジー・ヴァンパイアにはめられただけなのだ。
垂れ込みのあったカルマ信望者は、他にも当ブログが語っていない話を前提に、ハチャメチャな論理を続ける。例えば、「魔導師ならば、何をやってもカルマの負債を負わずに済む」なんて話を、当ブログでした覚えはない。カルマを信じたい余り、カルマを否定する情報とは関係無い話で叩こうとしているわけだ。このような詭弁は「藁人形論法」と呼ぶ。論争相手の意見を都合よくねじ曲げて紹介し、それに反論する事で、相手を言い負かせたように見せかける方法の事だ。今回の場合には、反論すら詭弁で破綻しているので、藁人形論法すら不成立という事になる。
スピリチュアルに浸かっている期間が長い事は誇りにはならない。理由としては、そもそもスピリチュアルというのは、カバラの魔導師が「教育やマスコミなど基本項目に騙されない大衆」から吸うために設定したエナジー・ヴァンパイア・システムだからだ。
少なくとも、「カルマは観念だ(回避できる)と語るアホが現れた、叩いてやろう」という発想で、当ブログや田舎で深呼吸とか幻の桜までおとしめようとする人間がカルマの消化をしているはずもなく、ますます増やしているだけだ。以前に語ったよう、「魂磨きをしている程に人生は長くない」という話にも繋がる。もちろん、2012年末には失望を味わい、カルマを増大させている。
カルマ信望者(他ブログに噛み付く)は今度は武田邦彦なんて人を立ててきたが、「武田邦彦 インチキ」で検索してから出して貰いたい。また、参考になる言葉があっても、使う所を間違えないで貰いたい。
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むしゃくしゃした時は、タバコでも吸って忘れよう。タバコは薬だ。ただし、本物は葉巻(シガー・シガリロ)とパイプのみ。
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