パワースポット巡りやチャクラ開発について
パワースポット巡りが趣味という人もいるだろうか。筆者もその手の事には関心がある。ここで筆者のパワースポットに対する考え方を語ろう。古来より地球からは素晴らしいエネルギーが発生しており、地球上に生きる生物がそのパワーを享受するのが本来の姿なのだ。つまり、パワースポットのパワーを求める行為は、あるべき本来の姿になるという、純粋な希求と言えるわけだ。
一方、瞑想やバイノーラルビート(ヘミシンク)などによるチャクラ開発も、別段特別な事ではなく、地球から切断され、封印されてしまっている人間が本来の姿を感じるという状況だ。求めるのが正しい流れだ。
「そんな世界は無い。科学的に説明しろっ」とか思う人がいるのは、別に構わない。だが、一方で、そのような不思議世界がある事を知りつつも、否定的に扱っている人いる。なんか非常に残念だ。スピリチュアル系メッセージでも、筆者とほとんど同じ事を語っていると考えている。偽チャネリングには、大衆がその手のパワーに近付かないように、あたかも正義の味方を振りをして警告するような内容もあるのだろうか。
人生というのは本当に長くない。もし、年寄りになり、ある種の悟りを開き、例えば、大金を手に入れる秘法や異性を惹きつける秘法を使えるようになったとしよう。しかし、年寄りならば、大金でなにかをしようなんて気にはならない。別に奴隷サラリーマン人生でも、年寄りが楽しむ程度のお金ならば貯められる。一方の異性だが、特に男の術者が女を引き寄せたとしても、年寄りならば既に性的関心が薄れており、あんまり意味が無くなってしまう。今度は術で若さを取り戻す気だろうか? 要するに、若いというだけで手にしてしまっている事はたくさんあるのだ。若い内に欲望の赴くままでいいから色々とチャレンジし、一見、失敗したかに思える事を経験してしまえば、年寄りになって後悔する事は無いのだ。
時には術者などが、傍から見て、情けない末路になっている事もあるだろう。しかし、悲惨な状況になる人というのは、術を使おうが使うまいが悲惨になる運命と言える。術を使わなくても、ろくでもない人生の人は無数にいる。これはお金持ちと性格の悪さの話にも該当する。貧乏人にこそ性格の悪い奴はいるし、醜悪な顔になる人もいる。知識が無かったり、術を使えない人にこそ悲惨な人生の人はいる。統計上では、お金の持ち方や術の持ち方は、その人の人生にあまり関係が無いという結論になる。
各自の人生において、同じ事をしたら同じ結果が起こるという事は一切無い。心に思い描いた事が起きるのだ。魔術とか瞑想を恐れると、その通りの結果になる。恐れなければ素晴らしい結果が出る。ただ、それだけの事なのだ。
別に早死にする事は悲惨ではない。むしろ、カルマが消化され、魂の牢獄を抜けられたという意味だ。東日本震災で津波に巻き込まれた子供を助けようとしたある若い女性が、子供を助けた後、自分が溺れ死んだという話をネットで読んだ。他人のために何かやるという悟りを開いた瞬間、魂の牢獄である地球にいる必要は無くなり、昇天できたというわけだ。
チャネリングメッセージ(精神世界の知識)を信じている人が、「悲惨な人生を送った人」について、なじるような事を書く理由は無いはずだ。
肉体の無い霊によるチャネリングメッセージは絶賛するのに、同じく霊である筆者のメッセージをないがしろにする人がいるとは、どういう事なのか? どちらも、読者である自分自身が創り出したメッセージに過ぎない。差別はしないで貰いたい。ムッとする話があったとしても、全て読者が作り出しているのだ。筆者にしても、筆者が書いていると言うより、守護霊みたいなのが勝手に書かせているのというのが正解だ。筆者に直接会ったりし、有効な情報を引き出せるかは、筆者と対面した人自身であって、筆者その物が色々と語れるわけではないのだ。まあ、ある程度の話はできるつもりだけど。
だいたい、今までの魔導師なんて、知識を独占して、みんなに語るなんて事は無かっただろうが。
パワースポットの話に戻し、占拠している者達がいて、彼ら自分達だけがそのパワーを享受しているという話を以前の記事で実施した。筆者は独占されている状況を気に食わない。ちゃんと自分もそのパワーを貰わねばならない。当然の権利だ! なお、相性というのがあるので、合わないパワーを取り込む必要は無い。とは言いつつ、多くのパワーはあなたの人生に合うはずだ。反作用が発生する特定の場所を恐れて、素晴らしいパワーを避けては損をする。
パワースボット巡りは、金箔を食う次のブロックくらいに気楽に実施できる覚醒への道だ。一緒に行く相手がいない場合には、筆者を誘って貰いたい。既に不思議な世界を知ったのならば、瞑想などで本当の自分と早く出会う事こそが、今世での使命だ。
筆者を行動力のある人間に見えるだろうか? 実はさほどでもないのだ。もし、活躍している人くらいの行動力があれば、筆者の知識ならば、もっと凄い事ができているはずだ。実際には、ネット散策とブログを書いているだけの毎日が多い。正直、読書も最近はしていない。要するに、「チャレンジしろ」「行動しろ」というのは、自分自身に対する戒めなのだ。別の誰かがカチンと来る反応をするとしたら、その人も筆者と同類の怠け者なのだ。筆者によるこの手の記事に対抗は無意味。相手は自分と同じく神で、人生は鏡という事を思い出すべき。
一方、瞑想やバイノーラルビート(ヘミシンク)などによるチャクラ開発も、別段特別な事ではなく、地球から切断され、封印されてしまっている人間が本来の姿を感じるという状況だ。求めるのが正しい流れだ。
「そんな世界は無い。科学的に説明しろっ」とか思う人がいるのは、別に構わない。だが、一方で、そのような不思議世界がある事を知りつつも、否定的に扱っている人いる。なんか非常に残念だ。スピリチュアル系メッセージでも、筆者とほとんど同じ事を語っていると考えている。偽チャネリングには、大衆がその手のパワーに近付かないように、あたかも正義の味方を振りをして警告するような内容もあるのだろうか。
人生というのは本当に長くない。もし、年寄りになり、ある種の悟りを開き、例えば、大金を手に入れる秘法や異性を惹きつける秘法を使えるようになったとしよう。しかし、年寄りならば、大金でなにかをしようなんて気にはならない。別に奴隷サラリーマン人生でも、年寄りが楽しむ程度のお金ならば貯められる。一方の異性だが、特に男の術者が女を引き寄せたとしても、年寄りならば既に性的関心が薄れており、あんまり意味が無くなってしまう。今度は術で若さを取り戻す気だろうか? 要するに、若いというだけで手にしてしまっている事はたくさんあるのだ。若い内に欲望の赴くままでいいから色々とチャレンジし、一見、失敗したかに思える事を経験してしまえば、年寄りになって後悔する事は無いのだ。
時には術者などが、傍から見て、情けない末路になっている事もあるだろう。しかし、悲惨な状況になる人というのは、術を使おうが使うまいが悲惨になる運命と言える。術を使わなくても、ろくでもない人生の人は無数にいる。これはお金持ちと性格の悪さの話にも該当する。貧乏人にこそ性格の悪い奴はいるし、醜悪な顔になる人もいる。知識が無かったり、術を使えない人にこそ悲惨な人生の人はいる。統計上では、お金の持ち方や術の持ち方は、その人の人生にあまり関係が無いという結論になる。
各自の人生において、同じ事をしたら同じ結果が起こるという事は一切無い。心に思い描いた事が起きるのだ。魔術とか瞑想を恐れると、その通りの結果になる。恐れなければ素晴らしい結果が出る。ただ、それだけの事なのだ。
別に早死にする事は悲惨ではない。むしろ、カルマが消化され、魂の牢獄を抜けられたという意味だ。東日本震災で津波に巻き込まれた子供を助けようとしたある若い女性が、子供を助けた後、自分が溺れ死んだという話をネットで読んだ。他人のために何かやるという悟りを開いた瞬間、魂の牢獄である地球にいる必要は無くなり、昇天できたというわけだ。
チャネリングメッセージ(精神世界の知識)を信じている人が、「悲惨な人生を送った人」について、なじるような事を書く理由は無いはずだ。
肉体の無い霊によるチャネリングメッセージは絶賛するのに、同じく霊である筆者のメッセージをないがしろにする人がいるとは、どういう事なのか? どちらも、読者である自分自身が創り出したメッセージに過ぎない。差別はしないで貰いたい。ムッとする話があったとしても、全て読者が作り出しているのだ。筆者にしても、筆者が書いていると言うより、守護霊みたいなのが勝手に書かせているのというのが正解だ。筆者に直接会ったりし、有効な情報を引き出せるかは、筆者と対面した人自身であって、筆者その物が色々と語れるわけではないのだ。まあ、ある程度の話はできるつもりだけど。
だいたい、今までの魔導師なんて、知識を独占して、みんなに語るなんて事は無かっただろうが。
パワースポットの話に戻し、占拠している者達がいて、彼ら自分達だけがそのパワーを享受しているという話を以前の記事で実施した。筆者は独占されている状況を気に食わない。ちゃんと自分もそのパワーを貰わねばならない。当然の権利だ! なお、相性というのがあるので、合わないパワーを取り込む必要は無い。とは言いつつ、多くのパワーはあなたの人生に合うはずだ。反作用が発生する特定の場所を恐れて、素晴らしいパワーを避けては損をする。
パワースボット巡りは、金箔を食う次のブロックくらいに気楽に実施できる覚醒への道だ。一緒に行く相手がいない場合には、筆者を誘って貰いたい。既に不思議な世界を知ったのならば、瞑想などで本当の自分と早く出会う事こそが、今世での使命だ。
筆者を行動力のある人間に見えるだろうか? 実はさほどでもないのだ。もし、活躍している人くらいの行動力があれば、筆者の知識ならば、もっと凄い事ができているはずだ。実際には、ネット散策とブログを書いているだけの毎日が多い。正直、読書も最近はしていない。要するに、「チャレンジしろ」「行動しろ」というのは、自分自身に対する戒めなのだ。別の誰かがカチンと来る反応をするとしたら、その人も筆者と同類の怠け者なのだ。筆者によるこの手の記事に対抗は無意味。相手は自分と同じく神で、人生は鏡という事を思い出すべき。
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